生誕270年長沢芦雪展

生誕270年長沢芦雪展

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生誕270年長沢芦雪展

九州国立博物館で開催中の長沢芦雪展に行ってきました。

副題に 若冲応挙につづく天才画家 とあり、
長沢芦雪(ながさわろせつ)とは、江戸時代の絵師。丸山応挙の高弟。長沢蘆雪、長澤蘆雪とも表記される。名は、政勝、魚。字は氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別合に千洲漁者、千緝なども用いた。丸山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人とあります。(Wikipediaより)
月竹図
個人的にこの作品にやられました。
解説には、細長い画面による風景のトリミング効果を逆手にとって、とことんその長さを追求した、機知に富む作品。このような描き方を、「あざとい」と見る向きもあるかもしれない。しかし、芦雪は単なる奇手に終わらせることなく丁寧に絹本に描いており、上質な遊び心に昇華している。
また、美術史家の辻惟雄氏によれば、こういうものもおもしろいですね。極端に細長い画面に描いた作品のことを「柱絵」と呼びますけれど、これはもう柱そのものですよ(笑)。
長い線をシューッと引いて、どんなもんでしょうってねえ(笑)。弟子がこんな絵を描いていても、応挙は何も言わなかったんでしょう。「まあ、生活のことを考えて描いているんだろう」くらいなもので。
普通は、こういう人の気を引くような作品は「売り絵」だって馬鹿にするけれど、芦雪は売り絵そのものを描いているようなところもありますよね。
ただ、芦雪は「売り絵」だからといって軽く描いているわけじゃない。軽く描いているようでいて、一生懸命描いているところがある。『旭日大亀図』は晩年の作品ですが、画題としては、よくあるおめでたい絵です。そういう伝統的なモチーフとして亀を描いても、高い技術でもって、遊んでいるんですね。今では、絵描きというと立派な作品を作る芸術家というイメージになりますけど、江戸時代の町絵師が活動する場面はさまざまあって、人を楽しませる芸能者のような役割もあったはずです。(集英社学芸の森websiteより)



そのほか↓
虎図
龍図
仔犬図屏風
龍図
牡丹孔雀図
群鶴図



様々な美術、芸術に触れ、少しでも自分の感性を磨くことで仕事に役立てればと思い、行ってみたところ、衝撃でした。
3月5日の後期から一部作品の入れ替えがあるようですので、もう一度行きたいと思っています。
会期は3月31日(日曜日)までで金曜日、土曜日は夜間会館で通常17時までのところ20時まで観覧できるようです。


江戸時代中期に活躍した絵師であり、円山応挙の高弟。

 1754年(宝暦4年)京都・篠山に丹波篠山青山下野守家臣、上杉彦右衛門の子として生まれました。 応挙のもとにいつ頃入門したかは定かではありませんが、数多き応挙の子弟の多くは町人である中、武士の芦雪は異色の弟子でした。 師応挙の高度な作風を完璧に身につける卓越した描写力に加え、奇抜な着想と大胆な構図、奔放で独特な画風を創出した芦雪は「奇想の画家」ともいわれています。また、画風と同じくその性格は、酒好きで奔放、快活である一方、傲慢な面があったと伝えられています。それ故か、同時期に同じ京都で活躍した高名な絵師と較べその履歴は少なく不明瞭の中、芦雪については「破門説」をはじめ、さまざまな巷説や逸話、噂、憶測で彩られています。絵画のみならず人物そのものにおいても人を魅了する「奇才」といわれる力が備わっていたのだと思われます。

 一般には応挙に入門してから長沢芦雪と名乗られたようです。この芦雪という号は、「芦花両岸の雪、煙水一江の秋」という芦も雪も白一色という意味合いである禅語からとった考えられています。芦雪と号してからは「魚」印を用いており、氷型の枠に入った「魚」字大印は芦雪のシンボルマークともいえる代表的な印章です。この印章についてはこのような説があります。応挙の元、修業中のある冬の朝、芦雪は寒さで張られた氷の中に閉じ込められている魚を見かけます。その帰り道、氷が溶け先の魚が自由に泳いでいる姿に目を奪われます。その話を応挙にしたところ、「苦しい修業時代も段々と氷が溶けるが如く画の自由を得るものである。」と諭されて以来、この印章を生涯使い続けたといわれています。この印は、芦雪40歳を迎える頃の作品からは右肩部分を欠失していますが、果たして自由を得たとの意味合いがあるのでしょうか。

 芦雪は、29歳の頃、天明2年(1782年)版「平安人物誌」画家部に名を載せ、絵師として名を成し始めます。また、この頃より多くの禅僧との交際が始まったと考えられます。
 1786年(天明6年)、応挙と古く親交のあった愚海和尚が、若き頃に応挙と交わした「蓋し愚海若かりし頃芦雪の師円山応挙と親交あり、或る日応挙和尚に向いひて曰へるやう、師若し他日一寺を建立するあらば、余は必ず寺のために揮毫を惜まざるべし」との約束をもとに無量寺再建成就の際、本堂の襖絵の依頼のため応挙を訪ねます。応挙は祝いに『波上群仙図』や『山水図』等、障壁画12面を描きましたが、多忙な上に年齢的なこともあったため、弟子芦雪に障壁画を託し、名代として京から南紀に向かわせます。それは芦雪33歳の頃、兄弟子たちを飛び越えた異例の抜擢でもありました。
 愚海和尚に同道し南紀に下った芦雪は、自らも本堂のために襖絵を描き数々の力作を残します。師の応挙や寒い京から遠く離れ、雄大な自然を有する温暖な串本で芦雪はまるで解き放たれたように一気にその才能を開花させました。激変した新たなる画風からは、時には応挙さえも越えんとする才能が溢れ出、当院所蔵である芦雪の代表作でもある『虎図』『龍図』など多くの逸作からその奇才の様が伺えます。 無量寺滞在中も酒好きで奔放な芦雪は、襖絵にとりかかることなく随分と酒を楽しんでいたかと思うと、一気に筆を走らせ大作を描いたという奇才ぶりが伝えられています。約十ヶ月間の南紀滞在中に270点余りもの絵を描き、この頃は芦雪の人生の絶頂の期とも云われ、無量寺の他に、古座の成就寺、富田の草堂寺、田辺の高山寺、他個人のために数多く作品を残しています。

 芦雪の画風は概して快活で明るいのが特徴ですが、晩年の頃からは時折、『山姥』のような作品からも見受けられる陰惨なグロテスクへの傾倒が印象付けられており、晩年期においての芦雪の心境の変化についてさまざまな憶測が拡げられています。
 1799年(寛政11年)、芦雪46歳で大阪において客死します。一説には周囲の嫉妬や憎しみによる毒殺であったとも、自殺であったともいわれる芦雪の死は謎に包まれ、死についてまでも異常であったと逸話が残されています。(串本応挙芦雪館websiteより)


投稿 古賀