意味 |
"周辺山地から変成岩や花崗岩など良質の庭石が産出することと、沼沢や湧水が多い土地という平安京の自然立地が、結果的に池・護岸・流れなどの施工技術を発達させ、さらに作庭のオーナーである貴族たちの洗練された美意識によって、京都を日本庭園のメッカに育てあげた。しかし、まだ平安前期には自然の湿地や池を改良して広大な水面を活用した園池中心の舟遊式庭園(神泉苑・淳和院南池・六条河原院、現在の大沢池の嵯峨院別業(べつぎょう、別荘))が主体であった。平安後期になると都の形態は完成し、むしろ自然を縮景して邸内にとり込む寝殿造り系の庭園が完成する。これは宮廷政治の定式化による儀式・年中行事の場としての庭園の役割と、貴族らの暑さを避け、花を賞で詩を詠むという快適で趣味本位の生活からの要求を満たすものであった。寝殿造りの邸宅は、方1町(120m四方)が区画という広大なもので、南面する寝殿を中心に東西に対屋(たいのや)、廊下と渡殿(わたどの)で東側南に泉殿(いずみどの)、西側南に釣殿(つりどの)が連絡、南庭を囲むように配される。南庭は寝殿の階前として白川砂の敷きつめられた広庭で、雅楽(ががく)・闘?(とうけい)・鷹使(たかづか)いなども行われる行事空間。南庭の南端には単純な楕円形の池が中島を伴ってあり、龍頭鷁首(りょうとうげきす)の船を浮かべ貴族らの遊弋(ゆうよく)に供された。池には北東部から流下する遣水(やりみず)が建物の間や下をくぐり涼しさを演出する。涼しさへの工夫には、高床と共に各建物の棟間が通風よくあけられて坪庭(つぼにわ) がつくられる。棟間の小空間に藤や萩などの前栽(せんざい)、野筋(のすじ)が設けられ、囲まれた狭い意味の壺(つぼ)から坪庭と名づけられた。このように、後世、日本庭園のディテール構成の多くの例が、寝殿造り庭園で工夫され洗練されており、その基本原則は、日本最古の作庭書といわれ、関白藤原頼通の次男橘俊綱の著作とされる「作庭記」に述べられている。平安後期、律令制の崩壊や武士階級の興隆による社会不安は、釈迦入滅後2,000年、仏の教えが守られなくて世の乱れが始まるという末法思想と相まって、貴族たちを造仏や作庭にはしらせた。現世に極楽浄土を具現化しようとして、浄土憂茶羅(じょうどまんだら)を庭園化するのである。西方浄土の主人公阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀(まつ)る阿弥陀堂を中心に、その前に阿字池を設ける典型的な浄土式庭園が字治平等院の庭園であるが、浄土の庭のモチーフはこれ以後も永く日本庭園の基調をなすことになる。平泉毛越寺(もうつじ)庭園もこの時代のもの。→ていえんけいしき | "