意味 |
どの国の庭園も風土や文化と密接に関係して独得の様式をつくり出している。いま世界の庭園様式を大きく分けると建築式(整形式・幾何学式)と風景式(非整形式・自然式)になり、前者に主として西洋式、後者に日本式(和風)庭園がある。その特徴を明らかにするため主な庭園材料を比較してみよう。(1)石:洋風は加工材を用い石造装飾品も彫刻など人工的意匠としている。和風は自然形態の庭石を単独または組み合わせて自然景を写実または象徴的に造る。(2)水:洋風は高度な人工を凝らした噴水など水を千変万化させ、和風は自然景の滝・流れ・池泉で渓谷河川・湖沼海洋を思わせる。(3)植物:洋風は幾何学的な形や動物の姿などの刈込み、叢林、装飾図案の花壇などの人工造形、和風は樹木固有の形態美を尊重、配植にも釣合が工夫される。日本庭園作庭の記録は飛鳥時代に始まる。早くも「日本書紀」に渡来人須弥山(しゅみせん)と呉橋(くれはし)を構えたとあり、次いで蘇我馬子が飛鳥川沿いの家に池と島を構えたので、時の人は島の大臣(おとど)と称したとあり、以後「しま」は庭を意味した。「万葉集」では草壁皇子の橘の島宮庭園が有名。池に石組、水鳥の放飼いなど海の風景は後世日本庭園の主流となった。奈良時代も平城京の調査で荒磯の庭が東院や左京三条二坊六坪等で発掘され、当時主要交通路であった瀬戸内海の白砂青松がその原形であろうといわれている。平安時代に入ると、都は山紫水明の地京都に移され、土御門殿(藤原道長邸)・高陽院(藤原頼通邸)など公家の庭に寝殿造り式庭園を生んだ。寝殿前は儀式行事を行う南庭、寝殿を中心に東・西・北の対屋(たいのや)その間には渡廊が架かり壺庭をつくる。対屋から中門廊が南に伸び池に面して釣殿・泉殿、中島には橋が付き龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の舟が浮かび、渡廊の下に遣水(やりみず)が流れるというもの。その技法は「作庭記」に詳しい。平安中期、浄土教による極楽浄土を模した浄土式庭園が現れた。大門の正面に大池、中央中島に橋が架かり、対岸の阿弥陀堂へ直線状に結ばれるというもの。法成寺・法勝寺(ほっしょうじ)や現存する平等院庭園・毛越寺(もうつじ)庭園等がその例。鎌倉時代に入ると寝殿造りは簡略化され、幕府の館には石組が石立僧の手によって造られた。当時の秘伝書である「山水並野形図」に系図があり、禅を加味した庭で有名な西芳寺の夢窓国師の名も見える。室町時代、足利将軍義満は北山殿(金閣寺)、義政は東山殿(銀閣寺)に仏閣を併置した豪華な庭園を造り、中国の山水画に学んだ庭園。禅寺では禅宗教義の自然観によって水を用いない枯山水式庭園がつくられ、龍安寺(りょうあんじ)や大仙院等の名園を生んだ。それらの陰には山水河原者(せんずいかわらもの)の働きがあった。桃山および江戸時代には茶事のため茶庭(露地)が考案され、また有力武将たちが壮大な城郭・書院を営み、それに鈎り合う豪華な石組を中心とする庭園が出現、醍醐寺三宝院・二条城二の丸庭園等の書院式庭園がその例。天下泰平の時代、公家や大名たちによる回遊式庭園が京都・江戸をはじめ所領地に造られた。池泉を巡る園路を中心として諸国の名所旧跡を採り入れられ文学詩歌等の教養趣味も加えられた。桂離宮庭園・修学院離宮庭園・小石川後楽園・岡山後楽園・水戸借楽園・金沢兼六園・高松栗林公園・広島縮景園・熊本成趣園などがその例。また庶民にも庭園が普及し、「築山庭造伝」前編・後編などの作庭書も出版されたが、封建制の故もあって定型化し創造性に乏しかった。明治時代に入ると維新の混乱や富国強兵・文明開化を急ぐあまり作庭活動はやや沈滞したが、大正時代にかけて高官・富豪などの本邸をはじめ各所に和洋折衷式庭園が盛んになった。現代は住環境の悪化に伴い、庭園を人間生存のためのミニマムな生活空間であるという認識に立ち、広く環境計画の一環として風土に合致し、伝統の優れた面を生かした新庭園様式の確立を目指して努力が続けられている。 |