意味 |
中国庭園は山水の景を様々な建築物に関係づけるという世界の庭園様式上特異な存在にある。古くから中国文化と深くかかわり合いを持ったわが国は庭園様式の発展上大きな示唆を受け、欧州では18世紀のイギリス風景式庭園様式にも影響を与えている。中国はその古い歴史の中で庭園に関する文献は十分といえず、幾多の戦乱に災いされて今日に残る名園は極めてまれである。庭園の源流を探ると、禽獣を養う苑(えん)、菜を植える圃(ほ)、果樹を植える園、苑の垣があり禽獣のいる囿(ゆう)など帝王と人民の利を共にする実用園ないし狩猟の地であり、その出現は商・周に遡るがいわゆる庭園としての記録は秦の始皇帝の阿房宮、その故地に造った漢の武帝の上林苑や建章宮・甘泉苑、神仙島のある太液池以後のこと。梁の孝王の兎園 (とえん)には築山が示されている。降って魏晋六朝(ぎしんりくちょう)の士太夫たちは老荘の学を語って清談を尊び、仏を敬って心性を養い、山林に情を寄せ隠棲を理想とし、清廉高潔がもてはやされた。また、自然をたたえる文学・詩・山水画も現れ、当時の庭園は詩情画意の趣が尊重されている。北宋の徴宗(きそう)の代に至ると艮獄(こんがく)を造る庭園材料運搬の法令「花石綱」、李格非の「洛陽名園記」、周密の 「呉興園林記」などによって多くの庭園が営まれていたことが分かる。明・清の時代に庭園数は急増し、殊に蘇州、「遊金陵諸園記」に見る南京・杭州・揚州など江南の地は気候温和で地味も肥え、商工業も盛んなため官僚富豪が多く集まり、文化消費都市となったから今日なお名園が多数残され、明の李計成による「園冶(えんや)」は当時の庭園技術の集大成といわれている。中国庭園は様式のうえから皇家庭園と私家庭園に分けられる。前者は豪壮華麗な宮殿に築山や花木を配したり、自然の山水を一部改造して風景を構成するというもので、故宮の御花園・頤和(いわ)園.(北京市)、避暑山荘(承徳市)などがその例。後者は都市の限られた小敷地内の住宅に様々な庭園技法を駆使したもので拙政園・留園などがその例。皇家庭園の特色は山や湖の美しい自然に人工を加えた離宮にある。まず景区を設定し、内部に景(風景点)を設け、景趣に合う名が付けられ、一部には政務を執る豪華な宮殿を設け、広大な自然風景とよく対比させている。私家庭園の特色は密度の濃い住宅庭園の技法である。区画:限りある敷地を変化あるものにするため幾つかの景区に分け、建物を結ぶ廊(歩廊・水廊・空廊等)、仕切られた塀の透し窓(漏窓・花窓)・くりぬき窓(空窓)・くりぬき門(門洞)等の門窓によって半ば透かされ庭に深みを与え、あらゆる施設は主と従、明暗、高低、閉合、疎密などの対比と際立(きわだ)ての効果を重視している。庭園建築:庁・堂・楼・閣・房・館・亭・台・?・廊・舫など多種多様。互いに対景し合い、入口には観賞趣旨の標題を扁額で示し、両柱に対聨(ついれん)を掛け、園記や詩画も用意される。窓内からは額縁状に飾られた扉や窓から園景が生けどられ、観賞経路となる回廊は観賞点となる建物と緊密に結び付き、夜昼天候とかかわりなく使用できる。瓦・卵石・磁片等を用いた舗装は精巧で豊富な図案を見せ、院子(中庭)には趣ある樹や鉢物等で用と景の調和空間を構成している。水景:倒景美しい広池と深く長い渓谷を対比させ、入江多くして奥深く、橋・廊・島等で連結する。護岸には絶壁・岩岸・船着きやテラス、滝や沢飛び石、洞窟などで変化が付けられる。築山:太湖石や黄石が愛用され,洞窟を造り山頂には亭が建ち借景と景観のポイントとなり、形よく穴としわの多い太湖石、垂直な礫質の筆石などが景石として珍重されている。植栽:花鳥山水画のように諸物に関係づけられ、四季変化の大きい落葉樹、姿・香り・色がよく古・奇・雅のある高尚な草木が好まれる。また複雑な建築配置の生んだ小空間には、白壁を前に草木と石峰が白紙に描かれた絵の様にあしらわれ、窓脇の盆栽・花木・景石等は室内に清新な趣をもたらしている。 |