意味 |
"戦争で被害を受けた市町村の区域について、その復興のため、1945(昭和20)年から1949(昭和24)年ごろにかけて策定された都市計画。政府は1945年9月に省庁のーつとして戦災復興院を新設し、同年12月、戦災地復興計画基本方針が閣議決定された。この方針は、過大都市の抑制と地方中小都市の振興を目的とし、その基礎となるべき土地整理事業を急速に実施しようとし、街路は土地利用計画に即応するとともに、防災・保健・美観にも配慮することになっている。緑地については、系統的に配置すること、その総面積を市街地面積の10%以上とすること、緑地帯の指定を考慮することなどを盛り込んでいる。土地整理については、街路・公園その他の公共用地の提供や、市街地の利用増進を図るものとし、1946(昭和21)年7月、復興土地区画整理設計標準が、各都道府県知事宛の通牒となっている。この標準では、近隣住区を単位として設計すること、住区内人口1人当り2m2以上の児童公園を、少年公園・幼年公園・幼児公園の園別に配置すること、児童公園と近隣公園と併せて区域面積の5%以上を留保し、特に人口密度の大きい地区では、人口1人当り3m2程度を計画することとした。同年9月、「特別都市計画法」が公布され、基本方針の市街地の膨張および家屋の連担防止を受けて、特別都市計画の施設として、緑地地域の条文があり、指定された地域内の建築物や土地に関して制限が設けられることとなった。同月の緑地地域指定標準によれば、人ロ20万人以上で、戦時中、防空空地帯を指定した都市では、その区域を根幹とすることしている。また、同年9月には、緑地計画標準の通牒も出され、土地区画整理標準に挙げられた公園関係の面積率とともに、普通公園・運動公園・自然公園・近隣公園ならびに児童公園それぞれにつき、面積・誘致距離・配置等の基準を示している。この分類と関連数値とは、1933(昭和8)年の内務次官通牒の公園計画標準のそれとほぼ同じであり、また公園道路(パークウェー)と墓苑(墓園)が含まれている。1946年10月、戦災都市土地利用計画設定標準の通牒において、緑地地域は市街地の周辺部に、帯状、環状または放射状に計画し、近隣住区の予想人口を6,000〜10,000人、その面積を30〜80haとしている。以上の標準に基づいて、総計3,477haに及ぶ公園が計画されたが、その後、財政事情その他の理由により縮小され、1949(昭和24)年には、1,914haとなり、結局、1961(昭和36)年までに完成した公園は、1,238か所、871haとなり区域面積の2.67%にとどまったが、戦災復興計画ならびに事業による公園の整備は、わが国の都市公園史上、画期的なものであった。→こうえん | "