意味 |
平安時代、皇族貴族など公家を中心とした寝殿造り建築に付随した庭園。正殿である寝殿前の南庭は広場的要素を持ち、白砂が敷かれ各種の儀式や行事が行われた。南庭の南には池泉と中島が置かれ、寝殿正面の島には斜めに反橋(そりばし)、その先は平橋が架けられた。中島には幄舎(あくしゃ)が建ち音楽等が奏せられ、池には龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の舟が往き来して舟楽や舟遊びが楽しまれた。「家屋雑考」によると寝殿の北・東・西には対屋(たいのや)が置かれ、その間を渡殿(わたどの)が連絡し、それによって造られた中庭は壺・中坪・局と称し藤を植えて藤壺、萩を植えて萩壺などと称された。また通常敷地の北東から遣水(やりみず)が導かれ東の対屋と間に架かる透き渡殿(すきわたどの)の下を潜り中門廊寄りに流れて池に注ぐ。湧泉の所には泉廊(泉渡殿・泉屋)が建てられた。対屋から南庭を南に向かって池、時には中洲や中島まで翼廊状に中門廊が延び釣殿と泉殿が設けられ、いずれも壁や扉なく吹放しである。釣殿は魚を釣り、舟遊びの舟着場、納涼や各種の宴にも適した中心的な施設。これら庭園様式の技法は「作庭記」に詳しい。前述したものはその典型、実際には左右対称でなく池の位置も所に応じ、遣水も池もないものもあった。今日完全に残されているものはなく、往時をしのばせるものとして京都の勧修寺・渉成園、平泉の毛越寺庭園・観自在王院庭園、奈良の円城寺庭園、字治の平等院庭園などがある。→へいあんじだいのていえん |