造園用語集

飛鳥・奈良時代の庭園


造園用語集

あ

飛鳥・奈良時代の庭園

項目 飛鳥・奈良時代の庭園 / あすか・ならじだいのていえん
英語 -
意味 大和朝廷による政治秩序の、形式による社会の安定化はアニミズム的な石や大樹への信仰を残しながら、観賞に耐え得る文化としての庭園を出現させるようになる。日本的な原形が育ちはじめたころ、仏教が大陸の建築文化などを伴いながら伝来し、導入され、庭園ならびに庭園を中心とした儀式や行事などに大きな影響を与える。貴族たちの間では、曲水の宴が催され、皇居南庭には渡来人の路子工(みちこのたくみ)によって、仏教の宇宙観を表現した須弥山(しゅみせん)と呉橋(くれはし)が賓客接待の臨時施設としてつくられた。須弥山思想の具体形は九山八海(くせんはっかい)であるが、この思想と形は寺院や貴族社会での作庭理念として以後育っていく。.明日香の島の庄の蘇我馬子は、当時の人々に島大臣(しまのおおみ)と呼ばれたのだが、当時の庭園は大きな池に島がつくられ、荒磯(あらいそ・ありそ)などで海景表現が中心になっていた。山に囲まれた大和盆地にあって大海原への憧憬があってか、大陸との関係や政治経済上で重要な瀬戸内海の表現が目されたか、古代の神池の系譜か、九山八海の表現か。恐らくそうした様々の状況が重合した結果であろうが、1975年に発掘された平城京左京三条二坊六坪の庭園遺構のように形式的完成度の高い海景表現をイメージさせる池泉庭園がすでに実現していた。なお、このころより島(しま)は庭(には)と同義語で使われてきた。
五十音順
あ い う え お
か き く け こ
さ し す せ そ
た ち つ て と
な に ぬ ね の
は ひ ふ へ ほ
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ