造園用語集

墓園


造園用語集

ほ

墓園

項目 墓園 / ぼえん
英語 park cemetery
意味 従来の墓地と異なり、緑多く公園式に設計された明るくしかも厳粛な墓地。一般に、公園墓地あるいは墓地公園と称していた名称を、「都市計画法」上の用語として整理したものである。近縁の名称に、田園墓地・芝生墓地・森林墓地・墓苑・霊園などがある。アメリカでは、19世紀の初め、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストンなどの都市が、イギリス風景庭園様式により設計した典雅な墓園を造成した。これを田園墓地(rural cemetery)と称し、その緩やかに起伏する芝生地、屈曲する園路、散在する樹木群によって構成された風景は、当時の市民に格好のレクリエーションエリアを提供した。サンジエゴ市やロサンゼルス市には、美しく刈り込んだ芝生の中に墓碑銘板を埋めこんだ芝生墓地があり、この形式の新しいものが、ハワイ州オアフ島のパンチボールで観光地にもなっている。ドイツには、ハンブルグ、ミュンへン、フランクフルトその他各市に森林墓地があり、大木の茂る厳かで静寂な環境は、市民の憩いの地でもある。パリ市のぺールラシェーズ墓地は規模壮大で、一般墓所・壁墓地・葬祭場・芝生広場など各種施設が完備し、有名人の墓も多い。日本の墓園は、これら欧米の墓園を参考として発達した。1872(明治5)年、明治政府は、 東京青山百人町続き地ほかに神葬祭地を選定、1874 (明治7)年には、これらを市民共葬墓地に指定し、東京営繕会議所がその工事を担当した。1876(明治9)年、東京府管理となり、これらが今日の青山・谷中・雑司ヶ谷・染井の各霊園で、大木も多く、花見・散歩などレクリエーション的利用もなされている。明治末から大正にかけ、ようやく都市に人口が集中するとともに、墓地需要も増大しつつあった折柄、1919(大正8)年の「都市計画法」において、都市施設のーつとして墓地が取り上げられた。この墓地は地方公共団体が計画し経営する公園墓地を意味している。これにより、東京市では1920(大正9)年、都心から西方30kmの地を選び、一大墓地を都市計画で決定した。わが国最初の真の意味での墓園と見られる多摩霊園であり、1923(大正12)年に開園し、開設面積132.2ha、欧米の森林墓地・芝生墓地を参考に設計され、当時の東京市公園課長井下清の業績の一つである。一区画面積3.3haの埋葬地25区画で構成され、環状ならびに碁盤状の主園路がそれらを連絡する。大噴水塔・壁泉・小噴水池・花壇・広場・並木など園内要所に配置され、既存木の活用とともに新植された樹木も大木となってよく繁茂し、壮厳な霊地であるとともに都民憩いの墓園である。多磨霊園に続いて東京市は、千葉県松戸に八柱霊園、東京都となってからは、小平霊園・八王子霊園を建設している。多磨霊園は、各都市における墓園の模範的先例となり、大阪市の瓜破霊園・服部霊園、川崎市の緑ヶ丘霊園、青森市の三内霊園などが造成された。戦災都市の復興計画では、市内の寺院墓地の移転と郊外における墓園計画が取り上げられ、その後非戦災都市においても墓園が次々と誕生した。1959(昭和34)年、建設省では墓地の配置、設計などを内容とする「墓地計画標準」を都道府県知事宛に通達し、墓所面積の墓地面積に対する割合を1/3以下とし、敷地内の緑地面積をできる限り広くするよう指導している。1968(昭和43)年「都市計画法」では、都市施設の墓地という名称は、墓園に改められ、名称と内容の統ーが図られた。その後、人口の都市集中はますます甚だしく、地方公共団体経営の墓園のみでは需要に追いつかず、1960年代中ごろから従来の寺院墓地のほか民間経営の墓園が、大都市周辺に誕生するようになった。しかし、1979 (昭和54)年の建設省による「墓園の現況調査」によれば、一部を除き、公共のそれに比較して規模小さく、墓園面積に対する緑地面積の比率も小さい。
五十音順
あ い う え お
か き く け こ
さ し す せ そ
た ち つ て と
な に ぬ ね の
は ひ ふ へ ほ
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ