造園用語集

田園都市


造園用語集

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田園都市

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項目 田園都市 / でんえんとし
英語 garden city
意味健康な生活と産業のために計画され、その規模は社会的生活をすべて可能にするものであるが、大きすぎてはならず、永続する田園地帯に囲まれ、土地は公有か、あるいはコミュニティのために信託されたものである都市。この語は、主としてイギリスのハワード(E.Howard、1850?1928)が提唱した田園都市論のそれを指しており、1919年、イギリスの田園および都市計画協会は、ハワードの同意を得て、田園都市を冒頭のように定義した。産業革命により人口が都市に集中し、住宅、上下水道、道路などの質的低下と量的不足、大気の汚染、流行病の蔓延(まんえん)、乳幼児死亡率の上昇など、生活環境と衛生状態の悪化は著しく、過密都市の弊害は甚だしかった。これに対し、何人かの識者が、人口の組織的移住、地価抑制のための土地所有制の検討、田園的環境の中のモデル都市建設などを提案した。ハワードは、これらの案の長所を連結させたばかりでなく、極めて独創的な考えに到達し、しかもその実践に乗り出したのである。1898年、「明日 - 真の改革に到る平和なる道」という図書を出版し、田園都市の概念を公にし、1902年には、「明日の田園都市」と改題して再版する。この本において、ハワードは過密都市問題の解決策として、あらかじめ定められた人口と規模の都市を幾つか建設すること、これらの都市は、農業、レクリエーション、公共的建築物その他の用にあてられる永続的な緑地帯により分離されること、それぞれの都市は、市民の経済的、社会的、文化的日常生活を十分に満足する施設を備えること、工業地域を設けること、土地は公有もしくは準公共機関に信託され、企業や個人に貸与し、地価の値上がりは地代によって吸収して、公共の利益のために充当することなどを拳げた。彼の描く模式図によると、田園都市の面積は6,000エーカー(≒2,428ha)、うち市街地を1,000エーカー(≒404.6ha)、残りを農耕地帯とし、人口は32,000人で、市街地にはそのうち3万人が居住する。市街地の形態は、同心円と放射線の組合せで、中心の大公園、公共建築物群からの6本の放射線状道路と何本かの環状道路により構成され、鉄道は市街地外周を環状に走る。住宅の密度は、住居地域で4,000m2当り約20戸、都市全体では約8戸という低密度である。ハワードの田園都市は、自給自足の理想的コミュニティと誤解する人がいたが、ウェルウィンに建設した田園都市の説明に、衛星都市の語が用いられたように、大都市と経済的つながりをもつものであった。1903年、ハワードは第一田園都市株式会社を設立し、ロンドンの北35マイルのレッチワースに土地を買収し、モデル都市建設に着手した。およそ 60年後、会社経営は危機を迎えたが、国は特別の法律を制定してハワードの原理を擁護し、現在人口3万9千人である。1919年、ハワードは第二田園都市様式会社を設立して、ロンドンから20マイルの地に、ウェルウィンガーデンシティの建設に着手した。この都市は、1946年の「新都市法」により開発公社が管理することになる。レッチワース、ウェルウィンとも工業都市であり、住民の大部分がロンドンに通勤せず、その都市で働いていることは、1966年の国勢調査で明らかである。こうして、ハワードの田園都市論は実験され、彼が唱えた都市と農村との結合、ころ合いの規模の工業と商業の町、健康的で整然としたコミュニティ、用途地域制、低密度、単一の土地所有、緑地帯などの都市計計画概念は、各国に深い影響を与えた。今日すでに古典といわれる彼の著書は、出版後直ちに各国で翻訳されるばかりか、田園都市的計画も行われるようになった。アメリカの文明批評家マンフォード(L.Mumford)は、「20世紀の始め、二つの偉大な発明がわれわれの前に現れた。それは飛行機と田園都市であり、両者は新時代の先ぶれである」と記している。
五十音順
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わ