造園用語集

公園史


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公園史

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項目 公園史 / こうえんし
英語 -
意味主に19世紀前半以降、各国の都市における公園の発達を記したもの。イギリスでは、古くからフィールズとかコモンという屋外のレクリエーションエリアがあったが、都市内に設けられる公園の初めは、19世紀前半における王室庭園の開放である。今日でもロンドンの代表的公園となっているハイドパーク、リージェントパーク、セントジェームスパークなどがそれである。これらの公園の位置は、ロンドンの西部に偏っているため、1845年には東部にヴィクトリアパークを開園した。一方、ロンドン以外の都市でも公園が設けられるようになり、リバプールのナーケンヘッドパークは、水晶宮の設計者て?造園家のパクストン(J.Paxton)の設計により、1844年に開園した。イギリスでは公園関係の法律がよく整備されており、第二次世界大戦後はニュータウンの公園計画、アドベンチャープレイグラウンドなどに見るべき成果がある。ドイツにおいては、1804年にミュンへンにエングリッシュガルテンが着工され、フランクフルトその他の都市では、城壁を撤去して跡地を公園にしている。ベルリンのティーアガルテンは、面積250haあり、16世紀初頭以来多くの記録が残され、17世紀には最初の公共の庭園として植栽が行われたという。第一次世界大戦後、「国民公園」が各都市に多数造成され、第二次世界大戦後は、戦災地の破砕物を利用して、ミ ュンへンの公園に「花咲く丘」といわれる美しい小山がつくられた。公園整備を失業者救済事業によって行ったことは日本における同様な事業の範となった。フランスにおいては、イギリス同様、王侯貴族の庭園で例えばリュクサンブール庭園のように一般市民に開放されたものが幾つかあるが、ナポレオン3世治下、パリ市の大改造を行ったオスマン(G.E.Haussman)とその部下のアルファン(J.Alphand)は、1858年、パリ西部にボアドブローニュ(ブローニュの森)という大森林公園を完成した。同年、パリ東部にボアドヴァンサンヌ(ヴァンサンヌの森)を着工し、前者の面積845ha、後者のそれは994haに達する。ひき続き、モンソ一公園、ビュットシ ョーモン公園などが完成し、これらフランスの公園は、流麗な園路曲線や大花壇などにその特色を発揮している。現代ではより機能的で、住民の要求によく対応した公園の整備に向かいつつある。アメリカでは、ボストンのコモン、フィラデルフィアのスクエアなどが古い公園とされているが、19世紀前半にボストンやニューヨークなどの都市に設けられたロマンチックな風景様式の田園墓地が、都市住民の公園に対する熱望を喚起し、1858年、ニューヨーク市マンハッタンの中心に面積340haのセントラルパークが開園することとなった。その設計は公開競技によるもので、1等当選者オルムステッド(F.L.Olmsted)は、東西の市街を結ぶ4本の堀割横断道路、地形の活用、イギリス風景様式の採用などにより、大都市の中央に「いなか」の風景を実現することに成功し、利用者は年間1,000万人に達して今日に至っている。この公園を範としてアメリカ主要都市にカントリータイプの中央公園が続々と設けられるようになり、シカゴのグランドパーク、カンザスシティのスウォープパーク、フィラデルフィアのフェアマウントパーク、サンフランシスコのゴールデンゲートパークなどがその例である。また、児童公園・近隣公園・運動公園などが各市に設けられるとともに、パークシステム(公園系統)の提案や都市美運動によりアメリカの公園は一段と発達した。近年は公園地の入手難に対し、ベストポケットパークのように小面積の土地の活用も行われている。日本においては、江戸時代に社寺境内地、将軍が設けた江戸周辺の苑地、火除地、広小路、大名庭園の開放、町人経営の花園、花鳥茶屋などがそれぞれ公園的機能を発揮してきた。明治の初めには居留外国人のために横浜に彼我公園(現横浜公園)、神戸に東遊園地などが設けられている。しかし、法的には、1873(明治6)年1月15日の太政官布達第16号によ るものが最初である。すなわち、「正院達第十六号三府ヲ始、人民転湊ノ地ニシテ、古来 ノ勝区名人ノ旧跡等是迄群集遊観ノ場所(東京ニ珍テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ、永ク衆人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右地所ヲ択ヒ、其景況巨細取調、図面相添、大蔵省へ可伺出事明治六年一月十五日太政官」とある。東京府その他の府県は、この下達に従って1887(明治20)年ごろまでに67か所、およそ1,890haの公園を開設した。1888(明治21)年8月、「東京市区改正条例」が公布、翌年1月1日から施行された。当初の計画では、ヨーロッパ諸都市の例を参考とし、市の面積と人口を基礎に公園の数量と面積を算出して、49か所、360haを告示したが、うち6か所の公園を実現したのみで、1903(明治36)年の新設計では22か所、220haに減少した。しかし、市区改正設計は、都市計画的に公園を配置しようとする最初の試みであり、その中に、わが国における近代的公園の嚆矢(こうし)とされる日比谷公園がある。この公園は1903(明治36)年開園し、面積は15.9haで、その園路計画、施設などの近代性において当時としては画期的なものであった。1919(大正8)年、「都市計画法」の施行により、公園は道路・河川・港湾などと同様に、重要な都市施設として計画されることとなった。大阪市では、太政官布達による住吉公園、1891(明治24)年開設の中之島公園、 1909(明治42)年開設の天王寺公園がある。京都市には、太政官布達による円山公園や嵐山公園のほか、「都市計画法」の受益者負担制度を適用した唯一の例として、船岡山公園がある。名古屋市には、1909(明治42)年から1920(大正9)年にかけて、近代的施設を施した鶴舞公園が完成した。1923(大正12)年の関東大震災により、公園は避難地として、また延焼防止としての効果を発揮したため、その必要性が広く認識された。そのため、特別都市計画事業により、東京では隅田・浜町・錦糸の三大公園と52か所の小公園、横浜て?は山下・野毛山の各公園が整備され、これらの公園の設計は永く模範として扱われた。大震災後、郊外住宅地の発展とともに、各地に土地区画整理が施行されるようになり、区画整理面積の3%が主に児童公園として留保された。第二次世界大戦中は、防空緑地が各都市に整備されたにとどまったが、公園施設の金属回収のほか、空襲による公園施設の被害甚だしくその面積は東京都が224ha、大阪市で112haに達した。戦後、公園の一部は米軍に接収され、「自作農創設特別措置法」により多くの緑地が買上げの対象となり、また、社寺境内地を利用した公園地の処分など、公園は痛手をこうむり、事業としても、公園地内の引揚者用仮設住宅の撤去、公園広場に仮埋葬された戦災死没者の改葬などであった。一方、「特別都市計画法」による戦災都市の復興事業は、少ない事業費ながら、全国115の都市で1,190か所、総面積930haの公園が誕生した。また、公園の清掃や簡易な工事は、緊急特別失業対策事業により行われた。1948(昭和23)年、「国有財産法」が改正され、公共団体が公園として使用する間、国有地を無償で貸与することができるようになり、東京都の代々木公園、名古屋市の名城公園、大阪市の大阪城公園をはじめ、この制度による公園は全国各都市に多い。1955(昭和30)年、「土地区画整理法」が公布され、設計に当たり、区域人口1人につき3m2以上、区域面積の3%以上の公園を留保することが法的に明確にされた。このころから国庫補助事業による公園整備は、次第に成果をあげはじめたが、一方において、公園地の他の用途への転用、あるいは地盤国有公園の処理問題などを解決するため、1956(昭和31)年に「都市公園法」が公布され、公園管理の基準が定められた。1968(昭和43)年、新しい「都市計画法」が制定され、公園は公共空地のーつと位置づけられている。1972(昭和47)年からは、国において、「都市公園等整備五箇年計画」を策定し、1977(昭和52)年以降は、全国各都市において、公園を含めた総合的な緑地計画、すなわち「緑のマスタープラン」が作成され、1976(昭和51)年には「都市公園法」の一部改正により、国営公園制度を追加している。
五十音順
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か き く け こ
さ し す せ そ
た ち つ て と
な に ぬ ね の
は ひ ふ へ ほ
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ