造園用語集

イタリア式庭園


造園用語集

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イタリア式庭園

項目 イタリア式庭園 / イタリアしきていえん
英語 ltalian Renaissance Garden
意味 14世紀ごろよりフィレンツェを中心に古典憧憬・文芸復興(ルネサンス)の気運が文学・美術などあらゆる芸術領域を支配、古代ローマ時代の伝統の上に独自の様式・文化を生みだした庭園。イタリア式の源泉は、古代ローマ時代の池と彫刻と緑陰樹のある中庭式整形園にある。最も基本的な特徴は、フィレンツェ、次いでローマ、さらに全イタリア等で都市近郊の眺望のよい傾斜地に幾重もの露壇を重ねたように作られた点と、その用途が広義の別荘として様々の遊びが巧みに意図された点にあり、そのために露壇式(テラス、terrace)とかビラ (villa、別荘庭園)とも呼ばれる。中世末期のイタリア都市国家の代表格のフィレンツェでは、銀行家であり政治家であったコジモ・ディ・メディチ(Cosimo di Medici、1389?1464)とその一族が実権をもち広く芸術活動全般を支援した。庭園や建築にも関心をもち、メディチ荘(Villa Medici)と名のあるものだけでも11庭園に及び、それぞれ地名と組み合わせて呼ばれるほどである。1450年ごろ、ミケロッツィに計画を依頼したフィエゾーレのメディチホ (Villa di Fiesole)がその初め。傾斜地を利用するために数段のテラスに分けて建造され、最上段に中世城館風のカジノが、中段には中心的な装飾園が水盤を中心に十字型シンメトリーに配され彫刻と刈込み物が要所を強調する。平面は極めて単純な比例配分の美が強調されるだけで、後期のルネサンス庭園のような大規模仕掛けはなにもない。ただオリーブ畑やブドウ畑、糸杉の植込みなどを背景にした単純な美しさが強調されていた。14世紀に始まり15世紀フィレンツェで盛んになったメディチ家中心の動きは、16世紀に入るとローマへ移り、ローマ法皇ユリウス2世らによって芸術の興隆が約束された。ヴァチカノ丘の一部に設けられた宮殿の修復計画はブラマンテ(D.Bramante、1444?1514)によってベルヴェデーレ園として実現した。ベルヴェデーレとは「眺めがよい」の意。3段の建築的露壇、階段と欄干(バラストレード)など意匠、青銅や大理石の噴水、古代の彫刻類の活用など、眺望と露壇の活用によるイタリア式の特徴が明快に示された代表作品で、ラファエロ(S.Rafaello)の設計によるマダマ荘(Villa Madama)と共に、他の庭園に大きな影響を与えた。16世紀も後半になると、イタリアルネサンス庭園と呼ばれて一時にたくさんの名園が輩出する。カステロ荘(1540)、ファルネーゼ荘(1547)、エステ荘(1549)、ボボリ園(1549)、ランテ荘(1560)、ピア荘(1560)、メディチ荘(1560)、マッテイ荘(1581)など。それまでのものより大規模化したり、装飾本位、水の演出と活用が巧妙となり、局部の意匠が全体の均斉をしのいで強調され、庭園建築や彫刻も甚だ多様な展開を示すようになった。こうして成熟したルネサンス文化は、16世紀末から17世紀にかけバロック式になっていく。明快な均斉美よりも饒舌(じょうぜつ)な細部技巧過多、漆喰彫刻や金細工や色大理石の多用による豪華性・装飾性本位を好む方向である。バロック趣味の特徴はグロット(grotto)や水魔術(ウォーターマジック、water magic)、刈込み樹木の乱用、迷園(めいえん)(メーズ、ラビリンス)等パズルやジョークを楽しむところにあり、アルドブランディーニ荘(1598)、ガンベラーヤ荘(1610)トルローニア荘(1623)、イソラベラ(1654)などに典型例が見られる。地形と気候に対応して構成された人工の極、世界の整形式の精華イタリア式は、国内を中心に燃焼し、その平坦地での展開であるフランス式を経て全世界の西洋庭園に影響を与えることとなる。
五十音順
あ い う え お
か き く け こ
さ し す せ そ
た ち つ て と
な に ぬ ね の
は ひ ふ へ ほ
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ